家から出て握手したら負けだと思ってる

完全在宅アイドルファンによるブログです

AKB48は好きだけど、「ハイテンション」じゃ踊れない

がっくりしています。

AKB48の46thシングルのA面「ハイテンション」にです。

率直にいって、ぼくはこういう曲は嫌いだ。

島崎遥香のラストシングルなので、がんばって好きになろうと努力したが無理だった。じゃんけん大会で初披露されたのを見て悪い予感はしていたが、フルで聴くまで判断は保留していた。まさかここまでとは……。

この曲、どうしたって「ハロウィン・ナイト」を連想してしまうし、いくらなんでも歌詞に中身がなさすぎる。もちろん、ナンセンスな歌詞を文字どおりメロディのノリで押しきる名曲はたくさんある。それを得意中の得意にしているのがつんく♂で、たとえば、モーニング娘。の「LOVEマシーン」は、歌詞のメッセージ性よりも音の響きや歌い方で聴き手の心を掴むことに成功している(歌詞にも意味が込められているのがさらにすごいところだけど)。

ただし、これはつんく♂のたぐいまれな言語感覚のなせるわざであって、残念ながら、つんく♂と比較すると秋元康には音に言葉を乗せるセンスが欠けている。まったくないってわけじゃないが、その差は歴然。「ハイテンション」の「ミサイルが飛んで世界が終わっても」と「LOVEマシーン」の「熱けりゃ冷ませばいい(フーフー)」を比べれば、どっちの歌詞がメロディに溶け込んでいるかは明らかでしょう。

念のためいうと、これは秋元康が作詞家として劣っているということではない。向き不向きの問題だ。秋元の作詞センスが光るのは、意味に重きを置いたとき、すなわち歌詞でストーリーを物語るときである。だから、乃木坂46の「サヨナラの意味」のようなストーリー性のある曲はものすごく良い。AKB48でも、「so long」や「桜の木になろう」のような、ゆったりと言葉を紡いでいく曲はすばらしい。端的にいえば、作詞家・秋元康の特性は散文の側にあって、韻文の側にはないということだ。毎度毎度、ラップの部分が衝撃的なまでにダサいのがなによりの証拠ですね。

残念ながら、「ハイテンション」というタイトルにも関わらず、この曲を聴いてもテンションは上がらない。「踊れ、踊れ」と煽られれば煽られるほどしらける。これなら、「ロックだよ人生は」のが、ずっとチャーミングで盛り上がるよ。卒業ソングだからってバラードを歌えとはいわないが、もっといい曲はなかったのか。ぱるるのソロパートってどこにあったの? 込山榛香や中井りかや小栗有以を抜擢した意味ってどこにあんの? 疑問だらけですよ。

「恋するフォーチュンクッキー」の大ヒット以降、AKB48は「心のプラカード」、「ハロウィン・ナイト」、「翼はいらない」と、セールスのターゲットを日本国民にしている気がする。しかし、「恋チュン」がヒットしたのは、メロディの魅力はもちろんのこと、この曲が指原莉乃のキャラクターをフィーチャーした曲だったからである。つまり、歌手と曲に密接な関係があったのだ。だから、「恋チュン」には指原莉乃がセンターである必然性があった。

一方、「恋チュン」の栄光よ再び! と狙った「心のプラカード」や「ハロウィン・ナイト」などは、大衆に向かって作られたがゆえにセンターが渡辺麻友や指原莉乃である必然性のない歌詞があてがわれた。つまり、誰が歌おうがいい曲だったわけだ。そんな曲を聞くほど大衆はバカじゃないから、栄光よ再び!は叶わなかった。いったい、向井地美音と「翼はいらない」に、どんなつながりがあったんでしょうか。

いい加減、AKB48は「恋するフォーチュンクッキー」の成功体験を忘れるべきだ。といっても、統一性のないメンバーが超選抜として選ばれる現状にあっては、これから先も、誰がセンターでもいいようなパーソナリティーの希薄な歌が作られるのだろう。それと比例するかのように、B面では、新たなユニットやさまざまな選抜のために、歌唱メンバーの個性が見える曲が作られている。

シングルの顔であるはずのA面はあたりさわりのない曲で、おまけのはずのカップリングでこそ特徴のある曲を歌える。……なんとも皮肉なことよのぉ。