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「アインシュタインよりディアナ・アグロン」は差別的 それでどうした?

『アインシュタインよりディアナ・アグロン』炎上騒動

HKT48の『74億分の1の君へ』のカップリングソング「アインシュタインよりディアナ・アグロン」が炎上している。

 

ぼくがこの件を知ったきっかけは、LITERAのこの記事だった。

正直いって、ぼくもこの曲のMVを見たときは「やばいぞ!」と思いました。

なんせ、歌詞があまりにも前時代的だから。

女の子は

可愛くなきゃね

学生時代はおバカでいい

今 一番 大切なことは そう

キャピキャピと

音が聴こえることでしょう?

この部分だけ取りだせば、たしかに差別的だ。

"政治的な正しさ"を大切に思う人たちが激怒するのもしかたない。

 しかし、その後CDが発売され、フルMVを見たことで、ぼくの印象は変わった。

この曲の意味をきちんと理解できていなかった、と反省さえした。

けれど、LITERAはそうではなかったようだ。

 

 AKSによる反論と、LITERAの再反論

つい先日、LITERAはこんな記事を書いた。

 非常に長いので要約すると、AKSから苦情が来たが、自分たちは間違ってない。この曲は差別的であるという論旨だ。

AKSは、この曲の意図についてこう説明している。

当該歌詞は、女優ディアナ・アグロンに憧れる架空の女の子のお話しであり、特定の女性像を推奨する内容ではなく、差別的な意図は全くありませんし、その他貴社が指摘される楽曲の歌詞についても同様に、女性蔑視やセクハラの意図は全くありません。

この説明に、LITERA編集部はこう反論する。

しかも、AKS法務部は言うに事欠いて、〈当該歌詞は、女優ディアナ・アグロンに憧れる架空の女の子のお話し〉だとしている。

あのね、「アインシュタインよりディアナ・アグロン」が今、一番批判されているのがここなのだよ。

 どういうことか?

LITERAによればこういうことだ。

  • 「グリー」はマイノリティを扱った作品であり、作中でディアナ・アグロン扮するクインは、「かわいいけど頭空っぽの女の子」を脱却する役柄である。
  • また、現実のディアナ・アグロンは社会問題や環境問題にコミットしており、決して容姿がいいだけの女優ではない。
  • 「グリー」もディアナ・アグロンも、歌詞とは正反対に位置するものであり、したがって、この歌詞は秋元康の差別的思想の表れとしか思えない。

なるほど、たしかに「グリー」はさまざまな問題を抱える生徒たちが、歌うことで自分を見つけ自分自身を表現する手段を獲得する物語だ。

また、寡聞にして女優ディアナ・アグロンについては詳しくなかったが、ネットで検索したところ、問題意識の高い女優なのは本当らしい。

 

でも、ちょっと待ってほしい

 

LITERAさん。

あなたたちは、「女優ディアナ・アグロンに憧れる架空の女の子のお話し」という部分を正しく理解できていないのではありませんか?

AKSはさらなる炎上を嫌っているのか、言葉をぼかしているが、ぼくは遠慮なく書く。そのほうが、さっぱりしてわかりやすくなるからね。

この歌詞は、

女優ディアナ・アグロンに憧れる架空の女の子のお話し

などではない。

正しくは、

女優ディアナ・アグロンに憧れる頭空っぽのバカな女の子のお話し

である。

だってね、この娘はこんなこといってるんですよ。

アインシュタインって
どんな人だっけ
聞いたことあるけど
本当はよく知らない
教科書 載っていたような
なんか偉い人だった
好きなのはディアナ・アグロン

もっともっと

輝きたい

人は見た目が肝心

だってだって

内面は見えない

可愛いは正義よ

チヤホヤされたい

アインシュタインより

 この歌の主人公である女の子は、アインシュタインのことも知らない。

「グリー」を見ても、作品のメッセージを正しく受け取れず、「ディアナ・アグロンみたいにかわいくなりたい!」としか思わない。

そういう女の子なのである。

 「グリー」はマイノリティを扱った作品だの、ディアナ・アグロンは女性たちの権利にも敏感な女性だのといったLITERAの説明は、この歌詞の女の子にとってはどうでもいいことだ。

そんなめんどくさいことは文字通り「何も考えない」。

なんせ、「世の中のジョーシキ 何も知らなくても メイク上手ならいい」と考えるような女の子なんだもの。

そして、これが重要なことなんだけど、現実にこういう考えの女の子はいっぱいいる

(もちろん、その男の子バージョンもいっぱいいる。)

だから、LITERAの反論は意味がないし、「グリー」やディアナ・アグロンのファンが怒っているとしても、それはお門違いというものだ。

怒るとしたら、秋元康ではなく現実に存在する「頭空っぽ」の女の子および男の子に怒るべきである。この歌詞はあくまで、現実の反映でしかないのだから。

(でも、好きな物を不本意な形で引用されることへの反発はぼくにも理解できますよ。)

エンタメと政治的な正しさと

そうはいっても、そんな歌詞を少女に歌わせるなよ!という意見もあるだろう。

そう主張するブログもあったし、LITERAもこのように書いている。

県知事でなくても、この歌詞にあるような価値観、つまり「女は難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい」などと発言すれば、世の中では確実にセクハラ発言認定されるだろう。

つまり、発言すること自体が許されないということだ。

これはある意味では理解できる。たとえ現実の女性の一定数が実際には、「女は頭空っぽでもいい」と考えているとしても、それを男性がいうことは女性差別の構造を再生産することにつながりかねないからだ。

「アインシュタインよりディアナ・アグロン」を聴いた少年少女が、「そうか、女はバカでもかわいければいいんだ」と思ってしまっては困るもんね。

理解できるからこそ、ぼくはこの問題をちょっとばかり真剣に考えました。

考えた末の答えとしては、そんなに文句ばかりいうな!である。

 政治的な正しさは確かに重要だ。

 ツイッターかなにかで、「女はバカなほうがかわいい」は呪いであるという文章を見た。男のぼくにはわからない、大変な思いをしているんだなと感じた。

けれど、人は正しさだけでは生きていけない。

ぼくたちには、スプラッター・ムービーやゴシップやアダルトビデオといった、正しくないものが必要なのだ。

もしも正しいものだけしか存在が許されないとしたら、物語は勧善懲悪のみになる。

あなたは、

「奥さんに暴力を振るい、病気の息子にも冷たく接したアインシュタインより、マイノリティの権利に敏感で、女性の自己決定権を訴えるディアナ・アグロン」

というタイトルの曲を聴きたいですか?

ぼくはあまり聴きたくない。

(と書いたものの、実は、ちょっと興味はある。)

閑話休題。

ともかく、エンタメと政治的な正しさとのバランスは難しい問題だ。画一的にこうと決められるものではなく、社会みんなの、なんとなくの合意に基づくものである。

だからこそ、正しさだけを唯一の価値観として押しつけることは控えてもらいたい。

もしあなたが、この曲の歌詞に怒りを覚えたとしたら、やるべきことは秋元康を叩くことではない。

そうではなくて、

女の子はバカでもかわいければいい」なんて、嘘なんだよ

ということを、あなたの周りの女の子や男の子に教えてあげることだと思う。

 

どうかこのエントリが炎上しませんように。