秋元康に文学コンプレックスなんてあるのかね
秋元康とは誰か?
HKT48のユニット曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞が差別的だという話題が再燃している。
原因は女子大学の授業で取りあげられたことが、朝日や毎日といった全国紙に掲載されたためだ。
で、この話題が、cakesというウェブ雑誌の連載記事のテーマになっていた。
ライターの速水さんとおぐらさんが、対談形式で秋元康の作家性を論じている。
なかなかおもしろい記事だ。特に、ぼくは「セーラー服を脱がさないで」の背景に夕暮れ族という社会的な問題があったことなどはまったく知らなかったので、とても勉強になりました。
ただし、ちょっとだけ「あれ?」と思うところもあった。それは主に、「作家性」と「文学コンプレックス」について話している部分だ。
秋元康における文学
ふたりは、こんなやりとりをしている。
おぐら と、いろいろ言ってますが、Jポップの歌詞にそこまで内容を求めるかっていう意見もあるかと思います。
速水 でもさ、俺たちがやるべきは、そこへ食いつくことでしょ。秋元康の“食えなさ”とは裏腹に、彼の初期の仕事には、作家性的なものが見いだせる気がするのね。例えば、「借りたままのサリンジャー」って曲があるんだけど。
おぐら 『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャーですか?
速水 そう。憧れの人からサリンジャーを借りっぱなしにしている女の子の話。返しちゃうと縁が切れちゃうのが恐いっていう。
おぐら 10代の通過儀礼の道具としてサリンジャーを使ってると。文学青年の自意識であり、文学少女への憧れも感じますね。
速水 歌っていたのは、山崎美貴ってアイドルの曲で、まあぜんぜん売れてない。ちなみに、俺が好きだった菊池桃子の歌では、秋元康はサンテグジュペリを登場させている。文学少女の片思いみたいなところが、秋元康の世界の原点なんだよ。
おぐら 秋元康に文学コンプレックス的なものがあるのは意外でした。きっと、サリンジャーの本を好きな女の子に貸したかったんだろうなぁ。
速水さんもおぐらさんも、秋元康の原点に文学少女や文学青年といったものがあると考えている。たしかに、秋元康はときおり文学的なアイコンを用いる。
たとえば、乃木坂46の「バレッタ」。
図書室の窓際で
女子たちが声潜め
会議中
ヘミングウェイを読みながら
僕はチラ見した
バレッタ
君の髪
大きな蝶が留まってる
バレッタ
羽根を立て
気づかれたくなくて
じっとしている
僕だ
クラスで一番かっこいい男子は誰かとひそひそ話をする女子をチラ見していると、バレッタをつけた女の子がこちらを見て微笑んだという内容。
いかにも空想がちな(というよりは、変質狂的な)文学青年による一人称の歌詞世界だ。(あらためて考えると、性的なニュアンスもありますね。)
また、AKB48の「秘密のダイアリー」ではサマセット・モームが使われている。
これは「先輩への淡い片思いを秘密の日記に書いている女の子」による一人称の歌詞。秘密の日記に先輩への想いを綴るという、古典的すぎるロマンチックさです。
ずっと隠していた私のダイアリー
誰かに見られたら最悪だと
本棚の片隅 サマセットモームの
中身をすり替えてずっと忘れてた
あなたの名前 何回出てくるかな
ピンクのペンでそこだけ変えた
ハートの中のあの恋の占有率
憧れていた(先輩)告白(せずに)切ない
ここでは願い 叶うの
また、NMB48にユニット曲として「太宰治を読んだか?」という歌もある。
太宰治を読んだか? と聞かれた
君と出会った日
正直に言えば
僕は読んでなかった
近くの本屋で何冊か買って
ファミレスに入った
縋るように
ページめくりながら自分探した
人生の意味に悩んでいる「僕」に、「君」が「太宰治は読んだか?」と問いかける。「僕」は必死にページを繰り答えを探すが見つからない。しかし、「君」という人生とは何かを語り合える友ができたという歌詞。AKB関連では、このような男同士の友情をストレートに歌うものはめずらしい気がする。
広告代理店マンとしての秋元康
この3曲はどれも名曲で、ぼくは大好きだ(特に「秘密のダイアリー」なんてMVもベタな少女マンガみたいで、主演の高橋朱里もかわいいんだ、これが)。
速水さんは「初期の仕事」といっているけれど、現在の仕事にも「文学少女・文学青年」というモチーフは存在する。しかし、はたしてこれは秋元康の作家性なのだろうか?
ぼくは違うと思う。
注目すべきは、歌詞で取りあげられている作家たちだ。ヘミングウェイ、サン・テグジュペリ、サリンジャー、太宰治……みんなメジャーどころばかりじゃないですか。*1
ウィキペディアのエピソード項目によれば、秋元康は自身についてこう語っているそうだ。「自分は天才でもアーティストでも芸術家でもない。ピカソになりたい広告代理店マン。でもピカソになりたいと思った時点でピカソにはなれない」。
本人の自己分析を読めばわかるように、文学的なアイコンの使用は、速水さんやおぐらさんのいう「作家性」とか「原点」のようなロマン主義的なものではない。秋元康がそれらを使うのは、単純に世間で流行っていたり、個人的に興味があったり、知っていたりするだけだであって、決して秋元康じじんが、こうした作家たちに強い思いれがあるとかではないと思う。*2
サン・テグジュペリやサリンジャーや太宰治は「文学少女/文学青年」というステレオタイプなイメージを作るのにぴったりだから使っただけなのだ。ちょうど、「アインシュタインよりディアナアグロン」でステレオタイプな少女を描いたように。
もちろん、「文学少女/文学青年」というモチーフを使うことそのものが作家性なのだといえなくもない。しかし、それならば、秋元康の歌詞は「徹底的なナンセンスさ」や「暴走族や不良文化」といったモチーフも初期作品から現在に至るまである。その中で「文学少女/文学青年」が際立っているかといえば、そうではないだろう。そもそも、中央大学文学部に進学していることを考えると、コンプレックスというほど抑圧的な思いを持っているとは考えにくい。
速水さんが例にあげた「借りたままのサリンジャー」も、内側からあらわれでたものではなく、広告マンとしてプロデューサーとして、世間の流行を敏感に察知したたまものなんじゃないだろうか。
と、ここまでが、真面目で文学的な分析です。
もうひとつ、ぼくが文学コンプなんてなかったと思う根拠がある。
イケメン成功者リア充としての秋元康
速水さんもおぐらさんも、あまり露骨に表現してはいないが、秋元康ってブサイクでモテない男みたいに思ってませんかね?
速水 俺たちも、気をつけないとね。西野カナならOKで秋元康ならNGとかは、ちょっと差別的かも。あと、彼の容姿については、ノー言及ということで。
おぐら 秋元康に文学コンプレックス的なものがあるのは意外でした。きっと、サリンジャーの本を好きな女の子に貸したかったんだろうなぁ。
ほら、引用した部分から、なんとなくそういうニュアンスを感じられませんか?
でもね、もしかしたらおふたりもご存じなのかもしれないけど、学生時代のやすすさんは、そりゃかなりのイケメンですよ。
ぼくが秋元康の学生時代の容姿をはじめて知ったのは、なにかの密着系ドキュメンタリー番組だった。それまでのぼくは、「秋豚」と揶揄されるあの容姿のままずっと生きていて、それこそモテなさを力に変えてきたタイプだと思っていたので、とても驚いたことをいまでも覚えている。
しかし、このサイトを見ればわかるように、やすすは中学高校と鼻筋の通った涼し気な目をした美少年だったのである。いま我々が知る秋元康の容姿になったのは、大学生になってからだ。しかし、そのころには容姿と引きかえに、放送作家という地位と名声と「当時のサラリーマンの4倍近い年収」(ウィキぺディア「略歴」より)を得ている!(たしか、テニスサークルに所属していたはず、リア充だ。)
こんな男が文学コンプレックスなんて抱くかね?
好きな娘にサリンジャーを渡したいなんて思いますか?
ぼくは思わないとおもうなぁ。
中高時代は顔がいいし、サリンジャーがブームになったころのやすすはとっくに富裕層の仲間入りして、業界の女の子とブイブイいわせてたんじゃないかな。
まとめ
以上がぼくの考えです。
速水さんは「文学少女の片思いみたいなところが、秋元康の世界の原点なんだよ」と分析しているが、秋元康には原点なんか存在しないと思う。
広告代理店マンはひたすら広告を作って宣伝するだけだからだ。
80年代から現代に至るまで一線で活躍できたのは、作家性のような内的衝動に囚われることなく、世の中の空気の変化にひたすら耳を澄ませていたからなんじゃないだろか。
それらしくまとめるとすれば次のようになる。
作家性がないことこそ、秋元康の作家性である。
おわり。
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