「世界には愛しかない」を聴いてると気恥ずかしくなってくる
欅坂46の2ndシングル『世界には愛しかない』。
その表題曲のMVを見ました。
あいかわらず一部のメンバー以外は顔を映さないという徹底ぶり。おまけに、今回のMVはダメな日本映画かってくらい照明が暗い。学校でのシーンは薄暗く、草原でのシーンは明るく撮影されているので、これが意図的なものだということはわかる。演出の意図としては、歌詞にもあるとおり、"大人に従わされて何もかもを諦め、希望を失っていた「ぼく」が「きみ」と出会って生まれ変わったんだ"ということや、これを飛躍させて"大人たちに自由を奪われて生きづらい思いをしているだろうけど、学校の外には無限の世界が広がっているんだよ"といったことを伝えたいんだろう。つまり、根底にあるのは乃木坂46の「制服のマネキン」的な要素だ。
でも、開放感あふれる草原でのシーンはカメラのパンが早すぎて、ここでもメンバーの表情がほとんどわからない。
つまり、アイドルのMVとしてはマイナス100点だ。
誰が誰やらわからず、メンバーの微妙な表情も楽しめず、三列目にいたってはバックダンサー状態だもんなぁ。
まあ、アーティストのMVならば、顔のドアップやバストショットの連続よりこちらのがいいのかもしれない。
と、ここまではほんの前置き。
ぼくはこの曲、けっこういいと思う。「サイレントマジョリティ」ほどの鮮烈なインパクトはないけれど、セリフで始まるというのはなかなか斬新。MVの平手友梨奈はやっぱり魅力的だ。2016年の夏は乃木坂46「裸足でSummer」を聴くことにしたので、今年の夏のアンセムにはならないけれど、まあ、こういう曲があってもいいと思うし、好きな人がいるのもわかる。
わかるんだけど、ぼくはこの曲が生理的に苦手です。
その原因は、曲にではなくぼくの側にある。
「世界には愛しかない」が生理的に苦手な理由
尾崎豊の陶酔感
「世界には愛しかない」を初めて聴いたとき、ぼくの頭にある歌手の名前が浮かんだ。
尾崎豊だ。
「なんで尾崎豊?」と思って考えるうちに、その答えがわかった。尾崎豊はセリフのような節回しで歌うからだ。
たとえば、「卒業」という曲がある。この歌の大サビはこんな感じ。
卒業
卒業していったい何わかるというのか
想い出のほかに何が残るというのか
人は誰も縛られたかよわき子羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
こういった歌詞を、尾崎は語るように歌う。
特に、「先生あなたは~」の部分はほとんどセリフだ。
あるいは、「15の夜」のBメロ。
15の夜
しゃがんでかたまり背を向けながら
心のひとつも解り合えない大人達をにらむ
そして仲間達は今夜 家出の計画を立てる
とにかくもう学校や家には帰りたくない
この「とにかくもう学校や家には帰りたくない」は完全にセリフである。ぼくは尾崎の熱烈なファンというわけじゃないけれど、好きな曲はいくつもある。「I LOVE YOU」とか「Forget―me― not」とか「僕が僕であるために」とか「シェリー」とか「十七歳の地図」とか、この辺の有名どころはみんな好きだ。
でも、「卒業」や「15の夜」を聴くと、なぜか気恥ずかしくなってしまう。これはたぶん、「仲間達」や「かよわき大人」といった青臭くて芝居じみた言葉のつまった歌詞を、まさに舞台役者がセリフを読むかのような節回しで歌うからだろう。歌という、ただでさえフィクション性の強いものに、尾崎豊の情熱的な声と日常からかい離した言葉が付随する。つまり、尾崎豊が「先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」と歌の世界に没入すればするほど、聴いているぼくはこの歌がフィクションであることを自覚させられ、現実に引き戻され、冷めてしまう。そして、冷静なぼくは陶酔する尾崎を見て、そのあまりの自己陶酔ぶりに気恥ずかしくなってしまうのだ。
「なってしまうのだ」と書いたけど、本当のところはわからない。これはあくまで無理やり理屈をひねって導きだしただけで、気恥ずかしさは感覚的で生理的なものだからだ。
とにかくぼくは、こういった歌を聴くと「うひゃあ」という気持ちになって、冷や汗をかいてしまう。見ちゃいけないものを覗いてしまったような、居心地の悪さを感じてしまう。
うーん、なんだか尾崎豊の悪口を言っているみたいになってしまったけど、そんなつもりはないです。ファンの方、すみません。
「世界には愛しかない」 に漂う尾崎豊感
話を戻すと、たぶん、ぼくは欅坂46「世界には愛しかない」にも、こうした尾崎的なフィクション性と自己陶酔感を感じてしまったのだ。
大人たちはいろいろうるさくいうけど、あいつらは純粋な心を失ってる。誰がなんといおうと、「ぼく」は「きみ」が好きだ。この世界には、愛しかないんだ!
「世界には~」の歌詞をまとめると、ざっとこうなる。
どうだろう。尾崎豊的な、大人への不信感や反発心とそれと裏あわせになったナイーブさや純粋さへのあこがれといったものが、「世界には~」にも見つけられると思う。というか、「サイレントマジョリティ」も尾崎的な世界観だった(こう書くと、尾崎世界観みたいで紛らわしいですね)。
もちろん、こうしたモチーフがあることが悪いわけじゃない。問題は(というのは、ぼくにとっての問題という意味です)、このような青臭いモチーフを、芝居じみたセリフ回しで語られることだ。
歩道橋を駆け上がると夏の青い空がすぐそこにあった
絶対届かないってわかっているはずなのに
僕はつま先で立って思い切り手を伸ばした
これは、平手友梨奈が担当する歌い出しの部分。
非常に嘘くさいでしょう。
普通の男の子は歩道橋を駆け上がらない。そんなめんどくさいことしないで、横断歩道を渡る。そして、夏の青い空に手を伸ばしたりなんかしない。男子中学生や高校生が手を伸ばすのは、青い空ではなく蒼井そらである。
「きれいごといいやがって。そんなもん、オナニーすれば忘れるぞ!」って感じだ。
もちろん、思春期特有の、心の内側に渦巻くどうしようもないもやもやした衝動というのはわかる。けど、それはこんな"ブンガク"的なものではないだろう。もっと名状しがたい何かのはずだ。それを、「夏の青い空につま先立ちになって手を伸ばす」のような形でわかりやすく表現されると、こっぱずかしい気持ちでいっぱいになる。
全力で走ったせいで息がまだ弾んでた
自分の気持ちに正直になるってすがすがしい
僕は信じてる この世界には愛しかないんだ
いまこの歌詞を書きながら、ぼくの顔は真っ赤になっています。
こうした平手友梨奈のパートが、また芝居臭い上に口パクだからタチが悪い。仮に生歌ならば、平手友梨奈という生身の女の子の身体性が感じられて、それがリアリティを担保してくれるだろうが、 悪い意味の声優っぽい節回しでリアリティのない言葉を口パクで語るとなると、ますます嘘くささが強まる。
もっとも、この嘘くささというのは、たぶん意図的なものだ。前半のセリフパートが嘘くさければ嘘くさいほど、後半の歌パートが盛り上がる。あたかも、やっと感情があふれて本音が出たかのように、リスナーには感じられるからだ。
なので、ぼくが以前このエントリで「生歌で歌うべき」といったのは訂正します。
ぼくは、息遣いや声のかすれ具合といった身体性があったほうが魅力的だと思って書いたつもりだった。いまでもその考えはあるけれど、一方で、これが演出なのだとしたら、口パクでもいいかもしれない。というか口パクであるべきだ。
いずれにせよ、以上の理由でぼくはこの歌が苦手だ。YouTubeでは、セリフパートをスキップしてサビから聴いている。ラジオなどで流れているときは、「セリフは早く終わってくれ」と思いながら聴いている。
じゃあ聴くなよ!って思われそうだが、サビの疾走感は好きなんですよね。
めちゃくちゃにベタな歌詞にメロディーだけど、あのサビはとても好きです。
だから聴きますよ。
たぶん、Mステに出演したのを見て、また気恥ずかしい思いをするんだろうなぁ。